日本の歴史

日本で最初のアフリカ人侍

侍、それは代表的な日本文化であり、この国を長い間支配してきた戦士階級です。彼らは戦のために生き、敵に勝ち、敵を討ち取ることを人生の目標としていました。しかし、そんな武士たちの中に1人アフリカからやってきた男がいたことをご存じでしょうか?彼の名前は「弥助」今日はそんな歴史に埋もれていった一人の男の人生を見てみましょう。

混沌の戦国時代

日本に来たヨーロッパ人とその奴隷たち

遡ること約500年、日本は混沌極める戦国時代に突入していました。暴力を権力基盤とした武士たちは農民から税を徴収し、その力でさらに兵士を雇い他の領主の土地を奪っていったのです。道徳も著しく低く、子供たちは兄弟であろうと親であろうと土地を相続するために殺し合いました。もはやモラルが崩壊していたこの時代では暇つぶしに人間を狩ることですら普通だったのです。こんな時代に日本にやってきたのが今日の主人公になるアフリカ人奴隷の「弥助」と彼を遠くの島国まで連れてきたカトリックの宣教師たちでした。

当初黄金の国という噂を聞いてやってきた宣教師たちは日本人の荒々しさに度肝を抜かれました。平気で明日殺されるかわからない国だと知った彼らは宣教のために地元の領主の支援を受けることがまず第一だと考えました。そしてこの時日本で最も影響力のあった支配者とは、かの織田信長でしたので彼らは信長に謁見し、布教の許しをもらうことになりました。

信長は当時多くのライバルと戦争中でした。これに目を付けた西欧人は信長に強力な武器を輸出することを約束します。この時輸出された武器とは火縄銃のことで、連発はできないものの馬をその発射音でひるませ、恐怖を与えることは絶大な威力を持っていました。この鉄砲の輸出によって信長は少しずつカトリックと接近していくようになります。

宣教師たちは鉄砲だけではなく、それ以外のプレゼントも積極的に用意しました。時計、ヨーロッパの剣、マント、どれも当時の日本人にとっては面白いものばかりでしたが、その中で最も信長の興味を引いたのは宣教しアレッサンドロ・ヴァリニャーノが連れていたアフリカ人奴隷でした。

信長は初めてアフリカ人を見て「なぜ、この者は非常に肌が黒いのか?あなたは奴隷を風呂に入れてやらないのか?」とヴァリニャーノに質問しました。ヴァリニャーノは「この者は生まれてから常にこのような肌を持っているのです」と答えましたが、自分で見た者しか信じない信長はなかなか信じません。そこで信長は自分の部屋に風呂桶を持って来いと家臣に命じました。

信長は風呂桶を目の前にして宣教師にここでこの奴隷を洗ってみろと説明したのです。しかし彼の予想に反して風呂で彼を洗ってみるとますます美しい肌は黒く輝いたので、信長はとても驚きこの男を侍にしたいと言い出しました。こうしてこのアフリカ人は「弥助」と名前を与えられて武士になったのです。

その後の弥助は武士として申し分ない働きをしました。大きな体を活かして戦争で活躍し、嫁ももらうことができたのです。信長は彼をいつも傍に置き、弥助も日本語を勉強していました。京都の町では「あれが、今度領主になるかもしれない外国人だ」と人気になっていたと言います。しかし運命は1年後に急転します。

信長の家臣であった明智光秀が謀反を起こし信長と弥助たちが泊まっていた本能寺を急襲したのです。多くの兵士に囲まれ寝間着姿の信長とその側近たちは一人、また一人と討たれていきました。弥助もこの時奮戦しますが最後は大勢の武士に押さえつけられ生きたまま捕縛されてしまいました。

ところが明智光秀はこの弥助を見るなり「私は人間以外を殺すつもりはない」とこの弥助を開放したと言います。これは外国人を猿だと考えていたとも、殺したくなかったための方便だともいわれていますが真実はもはやわかりようもありません。

戦後の弥助は病院の役割も持っていた教会に預けられその後の人生はわからなくなっています。侍として戦い続けたと言う人もいればアフリカに帰ったのだという人もいます。しかし、そのどちらも事実かどうかはわからないのです。しかし500年前に確かに主君のために戦ったアフリカ人がいたことは確かで彼の人生は今でもこうしてわずかばかり人々の記憶に残っています。

こんな外国人もいたんだということを知ると日本に住む外国人の人は少なからずシンパシーを感じてしまうかもしれません。

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